私の一冊 357号

『小林秀雄初期文芸論集』

君たちはどう生きるか
  • 小林秀雄初期文芸論集
  •     
  • 小林秀雄 著 (岩波文庫)
  •   稲井 良介 

 今年の大学入試センター試験で、国語の平均点が例年を大きく下回った。評論の問題に、難解で知られる小林秀雄の「鐔」が出題されたためらしい。

 丸谷才一が生きていたら、何と言ったろう。昨年亡くなったこの作家は「小林秀雄の文章は出題するな」という一文を残している。「彼の文章は飛躍が多く、語の指し示す概念は曖昧で、論理の進行はしばしば乱れがちである」云々。――そう、小林秀雄は確かにわかりにくい。

 初めて読んだ作品は、「無常という事」だった。高校の教科書に載っていた。以来、折りに触れて読み返してみるが、いまだにはじめからおしまいまで、すとんと胸に落ちたためしがない。

 さて、『小林秀雄初期文芸論集』である。この中に、志賀直哉を論じた文章がある。

 小林はここで、「志賀氏の全作の底に光る眼」を「決して見ようとはしないで見ている眼」と看破する。そして、「一層重要な事は、氏の眼が見ようとしないで見ているばかりでなく、見ようとすれば無駄なものを見てしまうという事を心得ているという事だ」「氏にとって対象は、表現されるために氏の意識によって改変さるべきものとして現れるのではない。氏の眺める諸風景が表現そのものなのである」と書く。

 「彼(小林)の昔の評論、志賀直哉論をはじめ他の作家論など、今読み返してみると、ずいぶんいい加減だと思われるものが多い」(坂口安吾「教祖の文学」)といった評がある。その当否をあれこれ言う資格など私にはないし、そもそもそれ以前に、この志賀論もまた難しすぎて、よくわからぬところが少なくない。だが先の一文は、志賀の特異な資質と、清澄で、確固として揺るぎない彼の文学の特質を過たず射抜いているように、私には思える。

 小林は難しい。だが、繰り返し読むうちに、はっとさせられ、深く考えさせられる文にぶつかる。

今年、没後三十年。行きつけの書店にも、著書を平積みにした特設コーナーができている。そこに添えられたキャッチコピーが秀逸だった。
「ぱっとは/わからない/しかし、/どーんとくる」  

                                       

(朝日新聞熊本総局長)