私の一冊 355号

『老人と海』

君たちはどう生きるか
  • 老人と海 
  •     
  • ヘミングウェイ・著/福田恆存・訳(新潮文庫)
  •      葉山 完治         

 三浦半島の付け根の海に面した小さな町で生まれ育ったことから、海に対する憧憬と畏敬の念は人一倍強いと思っている。

 私がヘミングウェイの「老人と海」を手にしたのは、大学に入ってからだ。当時、学園紛争が全国に広がった時期で、対象に真っ向から立ち向かう老人の姿に共感を覚えた若者は多かった筈だ。

 メキシコ湾流が洗うキューバの首都ハバナに近い海。年老いた漁師のサンチャゴは、不漁が続いた85日目の漁に、一人で沖に出る。物語はとてつもない大魚のカジキマグロと死闘を繰り返した4日間の顛末だ。

 強い“あたり”はあったが、獲物はなかなか針を飲み込まない。凡そ2時間後に、遂に針にかかり老人の小さな漁船を引いて泳ぎ回る。老人は獲物の疲れをひたすら待つ。 クライマックスは、3日目。浮かび上がったカジキマグロを老人の狙い澄ました銛(もり)の一撃で心臓を貫き仕留める。

 獲物の綱の引き具合や潮の流れ、風や雲の動き、鳥や光を放つ海藻など、獲物との対話のような探り合いや周囲の状況を次々に畳みかけてくる文体は歯切れよく、ドキュメンタリー映像を見ているようだ。

 釣り上げたカジキマグロは、老人の船を超える大物で18フィートもあった。やむなく舷側に括り付け帆を上げて港を目指す。ところが、血の匂いを嗅ぎ付け、鮫が波状的に襲う。オールに括り付けたナイフや棍棒で死力をつくし撃退するが、肉は食いちぎられ港に着いたときには、巨大な骸骨となっていた。老人は大魚の変わり果てた姿に申し訳なさを感じる。

 男臭いハードボイルドなこの小説を、今読み返すと、自然界では強者も勝利者たりえず、“海に育まれたものは海のものである”と語っているようにも思える。

 ヘミングウェイの最後の主要小説となったこの「老人と海」は、ノーベル文学賞への道を開いたと言われる。

 航空機事故の後遺症などに悩み、執筆活動も途絶え受賞7年後に、猟銃自殺する。アメリカ文学にとっても、忘れられない一冊だ。

                               

(熊本県立劇場館長)