私の一冊 352号

『椿の海の記』

椿の海の記
  • 『椿の海の記』 
  •     
  •  石牟礼 道子 著 (朝日新聞社)          
  •       川村 博子         

 かつて研究会スタッフとしてお手伝いしていた10年ほどの間に、様々な「一冊」との出会いがあった。この『椿の海の記』をはじめとした石牟礼氏の一連の作品も、今から16年前「歌から語りへ」と題する著者の講演の際、記念にと会からいただいたものだった。だが、当時はどうしても手が出ないまま本棚の隅に置かれ、何年もが過ぎた。40歳を過ぎてぽっかりと空き時間ができた時、ようやくその中から取りつきやすそうな『あやとりの記』を開いてみたのである。

     

 読みはじめて、愕然とした。それまで出会ったことのない文章と、たしかな魂をもった言葉の数々。紙の上の文字であるはずなのに、音があり、色があり、気配がある。空気の動きや匂いも感じる。小説を読む、というよりも、祈りを捧げるにも似た感覚におちいった。同じ熊本の地に住みながら、今の今までこの文章を知らずにいたのかと、情けない思いであった。

 『椿の海の記』は、昭和初期の水俣を舞台とした、著者の自伝的形式をとった小説である。村の人達から「神経殿」と呼ばれる盲目の狂女、祖母のおもかさま。天草から16で売られてきてすぐに命を落とす女郎ぽんた。主人公みっちんに自然や人間のありようを語るのは、痩せっぽちで呑んだくれの父亀太郎である。どこか高貴な趣のある南部熊本弁で語られる山や川の「神さん」、目には見えない「あの人たち」のこと…。自然や人に注がれる眼差しのなんとやさしく切ないことか。ふと、現代の私たちは一体どこに来てしまったのだろうという思いにかられ、失ったもののあまりの大きさに恐ろしくなるのだ。そして、近代の始まりを象徴する水俣病事件は、人々が祈るように生きていたまさにこの地で起こったことなのだと考えるとき、新たな悲しみが湧きおこってくるのである。

 それにしても残念なのは、講演の頃、私は子育て真っ最中で子どもの世話に追われ、その内容がほとんど記憶にないのである。様々な意味で転換期を迎えた今こそ、石牟礼道子さんの語られる「ことば」をこの耳でしっかりと聞きたい、と切望してやまない。

                               

(特定非営利活動法人 熊本子どもの本の研究会 会員)