私の一冊 322号

リンゴ畑のマーティン・ピピン

リンゴ畑のマーティン・ピピン
  • 『リンゴ畑のマーティン・ピピン』
  •     
  •          エリナー・ファージョン作/石井桃子訳     (岩波書店)
  •  
  • 小國 貴子

 人のいないひんやりとした早朝、街中を少し離れた静かな川辺に腰をおろし目を閉じる。川の漣、木の葉が風に踊るかすかな音、そして、日が昇るにつれて鳥の声がにぎやかに聞こえてくる。緑の風を感じる。目をあけると、漣を照らす光が様々な模様となり、やがて周囲の緑に溶け込んでいく。不思議な喜びを感じる。…これは私の住む岡山のお気に入りの場所の朝の風景。

 子育ての間、子どもと物語を楽しみたいという思いだけで関わるようになった〝おはなし〟の世界。だが、年を追うごとに、言葉で語られたおはなしの奥にある緑や風が語る声に心を傾けたいと感じるようになった。意識して自分の周りにある小さな自然の中に身を置くと、これまで気づかなかった様々な表情が見えてくる。そんな心持でいるとき読みたくなるのが、ファージョンの作品たちだ。『ムギと王様』など珠玉の短編たちは、初め柔らかな手で物語の世界にいざなうが、その手はとても強い力でその物語の世界へ引きこんでしまう。

 ところが、実はこの『リンゴ畑のマーティン・ピピン』だけは、恋の物語というイメージが先行し、以前そこまで親しむことが出来なかった。訳者の石井桃子さんの追悼を機に再読したのだが、魔法のようにその世界に吸い込まれるのに驚いた。「ああ、うるわしの大地よ!今まで私はおのれの生きてきた世界の美しさを知らなかった。」とは本文の言葉だが、それに近い印象だ。私は作品のベースになる英国のサセックスの自然を知らない。だから、この作品の素晴らしさの十分の一も感じ取れていないかもしれない。だが、肌に触れる風や木洩れ日、水の輝きや海の潮の香りは同じように心に作用していると思う。そしてなにより、現実の時間の中にありながら、また別の時間の中にいると感じること。私たちの現実の時間は有限だが、無限の時間を過ごすことができる。

 「みどりの葉がおどる みどりの葉がおどる つばさもたげて 枝の上でおどる そよぐ風がささやくよ」新緑の季節に本書で散りばめられた美しい詩を読むと、心は翼が生えたように軽やかになる。  

                   

(熊本子どもの本の研究会会員)